連句ミニ解説
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転じ
発つ鳥の羽音が残る北の空  水
  濁り水さえ雁が音の味  謎
借金をしてまで宇治の遊山船  華

  「心太」より。
  空に注意が向いているであろう水さんの句に対し、謎さんが視線を水辺に向けた句を付けました。「発つ鳥の羽音」から、鳥が飛び立ったあとは水も濁るだろうというので「濁り水」、さらに「北の空」に帰るというので「雁(雁が音)」を出しました。前句(まえく)の雰囲気を維持しながら、空と水面という、句に広がりを持たせた見事な付合(つけあい)です。
  さらに、謎さんの句は、その14音だけをとっても充分に鑑賞できる句になっています。連句では、こういった句の独立性も重視されます。例えば「そういうことも確かにあるかな」という7・7を考えてみた場合、どんな5・7・5にも付きそうですが、この句自体は何を言っているのかはっきりしない句です。それぞれの句が独立性を保ちながら、前の句との31音である世界を形づくる、というのでなければいけません。連句では、各句独自の鑑賞と、前句との31音での鑑賞と、いずれも素晴らしいものであってはじめて、良い付合といえるのです。
  一方、華さんは、「雁が音」から「借金(しゃっきん=借りガネ)」、「雁が音(お茶の品種)の味」から「宇治」、「水」から「遊山船(ゆさんぶね)」を連想して、句を付けました。「宇治(淀川)あたりで船あそびをしようと思ったら金がかかるなあ」という感じの句ですが、打越(うちこし)と前句が「水辺にいた鳥が北の空へと飛んでいった」というのに対し、「さすが宇治だけあって、この川の水もお茶の香りがするのだろうか」という感じに転換させました。打越と前句になかった「人事(人の行動や様子など)」の要素を新たに出したわけです。これが「転じ」です。

遣り句(やりく)
利々々利々々と岸に鳴く虫  水

  「心太」より。
  この水さんの句は、上の華さんの句に付くものですが、いろいろと趣向を凝らした句ばかりが続くと、気分が重くなりますので、少し緊張を解き放つために出した軽めの句です。こういった句を遣り句といいます。
  遣り句は、いい加減な気持ちで付けているのではなくて、場(座)の雰囲気を見て、ぽっと投げ入れる感じのものです。遣り句ばかりの付句ではつまりませんが、遣り句のない付合はしんどくて、疲れが増すことでしょう。水さんの句は、しかし、「借金」に対して「利々々」、「船」に対して「岸」と縁語を配し、きっちりと「付いた」句になっているのがさすがです。

賦物(ふしもの)
かなわじといえども生きん冬の虫  謎
  玉の緒幾尋(いくひろ)延ぶる日の影  華
空青しつかの間波に魚踊る  水
  邁進一路海の男ら  華

  「心太」より。
  賦物は、言葉遊びの一種で、連句を巻くときの一種の制約として、たとえば「今回は色に関係する言葉を各句に必ず詠み込むことにしよう」などという取り決めを、一座で交わし、「賦・何色連句」などとタイトルに記載するものです。当初は発句から挙句まで、全部の句が「縛り」の対象でしたが、後世では発句のみが対象となり、しかも発句が出てから「今回の連句は○○を賦したということにしておこう」と、後でつじつまを合わせるだけの形式的なものになってしまいました。
  例えば、連句「睨み鯛」の発句は「大鯛も雀になれず睨み鯛」なので、この連句は「賦・何焼連句」としておいてもいいのです(「鯛焼き」という言葉があり、それに含まれる「鯛」という字が発句の中にあるので、「何焼き」という条件にかなう)。賦物とは通常、こんないい加減なものですから、あまり気にすることはありません。
  上に例に挙げた4句の場合は、賦物連句ではありませんが、連句の展開上めいめいが勝手に趣旨を理解して(悪のりして?)付け進めたもので、それぞれ人名が詠み込まれています。具体的には、まなみさんの娘の「かな」ちゃん、息子の「ひろのぶ」くん、「まなみ」さん、夫の「しんいちろう」さんです。しかし、そういう制約を課しながらも、それぞれの句は前句にきちんと付いていることをご確認ください。

本歌取り
  蟲(オウム)いじめて森の神怒る  R
お悔やみにあれふみわけて脳死かのぉ  華

  「睨み鯛」より。
  前句に出てくる「オウム」は、「風の谷のナウシカ」に出てくる虫?です(実はわたしはよく知りません)。もちろん、オウム真理教にも掛けてある言葉です。そこで、華さんが付句を出したのですが……。
  オウム真理教の連想から「アレフ(あれふ)」を付けました。ナウシカは「脳死(なうし)か」という言葉に表れています。句全体としては、「あれ」が少しあいまいですが、「病院にお悔やみを言いに来たら、脳死移植だというのだろうか、あれ(取材のテレビカメラのコードなど)がたくさんあって、それを踏み分けていかないと病室にたどりつけなかった」という意味です。ここまで無理して「あれふみわけて」という表現を出したのは、もちろん有名な和歌「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」を踏まえている(本歌取り)からです。一種のパロディーですね。
(以上、2001年3月29日)
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