連句ミニ解説・補遺
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挙句(揚句)
つつじ咲き野に咲く花と競演か  律
  ちさき指よりあふれいでつつ  華

  「春霞」より。
  律さんの35句目に対する挙句は、花びらを両手いっぱいに持った小さな女の子をイメージしたのと同時に、前句から読みとった「歌手」に、付け句で「ピアノ奏者」を付けたものです。指先からあふれるのは、花びらであったり音楽であったりするのでしょう。なお、挙句は、できれば「丈長く(たけたかく)」、余情を含み、めでたい句に越したことはありませんが、この挙句を付ける場面に限っては「句の巧拙よりも速度」が尊ばれます。連衆(連中)みんなで詠み連ねてきて、「あと1句で終わる」という場面をじっと注目している、という状況では、あれこれ小理屈をこねて句をひねるより、スパッと出してオシマイッ!にしなはれ、ということなのでしょう。
  例えて言えば9回裏2アウト、追い込まれた最後の打者に対する投手の自信満々の1球を、審判が「ストライク、バッターアウト!」と宣言したその瞬間、球場はゲームセットに沸き立つわけですが、そのときに「おいおい今のんボールやないんか」とおもむろに抗議に向かっても、誰も聞き入れない、というようなものではないでしょうか (^_^)?
(2001年5月1日/5月11日補足)

個性と自己主張
  わたしはいわゆる俳壇や歌壇には無縁の人間ですが、創作の世界は、「確かにそうも言えるやろうけど、こういう受け取り方もあるで」でいいのではないでしょうか。俳句や短歌(句集や歌集)は、できあがったものを世間にポンと投げて、人さまの反応を探りますが、連句の場合は、作品を作っている最中から、他の人の思いやら反応やらが直接返ってきます。自分一人で作る(一般的な)「個の文学」でなく、「座の文学」と言われるゆえんです。
  誰それの世界に共鳴する、というのではなく、協調性を持ちながらも自己主張はきちんとしていく! というのでないと、緊張感のある連句は巻けません。各人各様の個性のぶつかりあいが、最終的にひとつの作品(歌仙など)として結実するのです。わたしも、毎回どう展開するのかが分からないのが楽しみで、連句をやっています。
(2001年5月8日)

付合(つけあい)
茶を入れて 一休みする 山歩き  梵
  一休和尚の トンチくらべか  律
茶を入れて 一休みする 山歩き  梵
  屏風のトラに ねじり鉢巻き  律

  「(5月の連句)」より。
  当初の律さんの付け句は「一休和尚の トンチくらべか」でした。しかし「ひとやすみ」から「イッキュウさん」を付けるにしても、「一休み」「一休和尚」と同じ字面を使うより、例えば「トンチくらべで真ん中渡る」などとでもしたほうがスマートです。前句と付け句を続けて読んだ人は「あ、一休さんか」と思うでしょう。
  「謎掛け」になぞらえていえば、連句では「『前句』と掛けて『付け句』と解く」とし、「『その心』は書かない」ほうが、楽しみがあるというものです (^_^)。つまり、一連の句は、「……と掛けて」「……と解く(次はこれに対して)」「……と解く(次は……)」「……と解く」……という繰り返しになっていて、「その心」が書いてないことが多くあります。「その心」は座の人たち(参加者=連衆)が想像するわけです。
  「その心」のこと(気分)を、連句では「付合(つけあい)」と呼んでいますが、うまい付合はその座の全員が「なるほど!」と納得できるものです。逆に、一部の人にしか分からない付合は、あまり称賛できません。また、座の全員には分かるけれども、その「座」以外の者には分からない、というような付合は、結束性や優越感を高めはするでしょうが、わざわざ目指すべきものでもないと考えます。
  今回の例のように分かりやすい付合では、「その心」を書かずに、読者(座の人たち)に想像させる工夫をしてみることが大切です。指摘を受けた律さんは、「一休」という言葉を使わずに、見事に「一休さん」を表現しました。
(2001年5月9日/5月11日補足)

取りなし
  屏風のトラに ねじり鉢巻き  律
暇な絵師いたずら心で筆を入れ  華

  「(5月の連句)」より。
  律さんの前句は「屏風のトラに(向かって、屏風の前の人が)ねじり鉢巻き」ということですが、華さんはそれを「屏風の中のトラ自身が、ねじり鉢巻き(をしている)」と「取りなし付けました。この「取りなす(=勝手に解釈する)」という手法は、連句ではよくあります。また、そのことによって、句を出した人の趣向へと、場の雰囲気が流れていくものです。この「取りなしあい」によって、その場その場で違った連句が詠まれていきます。一座のメンバーや付け句の順序が違えば、二度と同じものが生まれない、というのも、連句の妙味のひとつです。
(2001年5月11日)
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