ぼ う
子つばめのキチ坊

1) 空にはり出した大きな屋根の下で、子つばめの

キチ坊は息苦しくってたまりませんでした。初夏の空気

は 生まれたてのたけのこのように、あたたかな黒い地

面からのびあがってきます。ま四角にくぎられた影と日

なた。世界は発火しそうなエネルギーをはなって、ふく

らんでいくようです。
     どろ
 かわいた泥の巣は、キチ坊と兄弟たちで満員でした。

母さんつばめや父さんつばめが大好物のハエやガガンボ

を持ってくると、

「それーっ!」

みんなころげ落ちそうになりながら、ごちそうを取りっ

こするのです。



 ええ、きのうまではそうでした。はり出した屋根の向

こうの世界へ行ける日を、キチ坊はどんなに待ちのぞん

だことでしょう。ぴかぴかした緑の葉におおわれたさく

らの木。枝によっては太った毛虫をびっしりつけていま
       ざっそう
す。根もとに雑草をしげらせているのは大きなくすの木、

その向こうには道路。

 それから川もありました。春先にはおしゃれなせきれ

いや、上品な白さぎたちがあそんでいた小川です。夏を

待ちかまえた今は、育ちざかりのすずめの若鳥が川原で

けんかをし、つばめたちはおいしい虫をさがしてミサイ

ルのように飛んでいます。



 きょうキチ坊は、そのまっさらな光の世界へ飛び出し

たのです。

「せぇのっ」

と、からだじゅうで羽ばたくと、くすの木のこずえをか

すめて、すういと風に乗りました。お日さまが、とけか

かったはちみつみたいにあまく、あつく目にしみて、い

っしゅん、ぎゅっと目をつぶります。それからそっとあ

けました。ポスターカラーのようにまっさおな空が、さ

あっと開けていきます。



 風が吹いてきました。はるか下の方で、さくらの虫食

いの葉がゆれています。綿雲がちぎれ始め、ハトのむれ

は大きく輪をかいて木立ちの中へばらばらと落ちていき

ました。

 いま、何のささえもない空にいる!

 左右にぴんとはったつばさが風の表面をすうーっとな

でる、この気持ちよさ。



 「ヘーイ、キチ坊! こっちだ」

なかまの声に、キチ坊は川をひとっ飛び、土手もすいっ

とこえました。するとびっくり! キラキラ光る水面が
                     かた
ぱっとあらわれました。大きな池です。水草が片がわを

おおい、かいつぶりが三重まる、四重まるの波を残して

水中に消えました。

 「おまえ、一年ぼうずだな。ぼくは大空のダンサー、
 むてき
無敵のフラッシュさまさ。ぼくのあとについてこられる

かい?」

「できるよっ」

キチ坊はフラッシュのしっぽを見ながら、てかてかした
   かわら
茶色の瓦屋根すれすれに飛びすぎ、全身に力をこめて高

く高くまい上がりました。



 大空はなんてすばらしい運動場。ほかのなかまもやっ

てきて、たがいにはやさをきそったり、追いかけっこを

したりしました。無敵のフラッシュはスピードも身軽さ

も一番。キチ坊もほかのだれも、かないません。

 キチ坊はみんなにさそわれて、光る池の水面へ、空を

かけおりていきました。前を飛んでいたフラッシュはつ
                        だんがん
やつやした黒いからだをおどらせると、水面近くを弾丸

のように飛びすぎながら、口いっぱいに水をふくんで中

空へまいもどりました。キチ坊もそれにならい、水面ぎ

りぎりに飛びおりて、くちばしを水にひたそうとすると、

 じゃぶん、ぱくっ! 

 大きな魚のまるくあいた口と、そのおくのまっ暗なの

どが目の前におそいかかりました。

「あぶないっ」

うしろを飛んでいた夕焼けのスイーがさけびます。キチ

坊はあやういところで身をかわし、空へにげもどりまし

た。ばかでかいコイが、ぶつぶつあわをはきながら、深

みへしずんでいくのが見えました。



 「やーい、パンくずとまちがえられてら」

フラッシュが笑いました。

「スピードが足りないからだぜ。こわがらずにすいっと

やれよ」

「こ、こわがってなんかないよっ」

キチ坊はぱたぱた羽ばたきました。

「いいえ、わたしもこわかったわ」

スイーが言いました。



 高い高い空では、つばめたちはいなづまのようにかけ
             すんぜん
めぐりました。しょうとつ寸前でくいっと向きを変え、

でもスピードは少しも落とさず飛びつづけるのです。キ

チ坊も夕方まで小さなキチキチ声をあげながら、思うぞ

んぶん遊びました。夕日がしずむと、最後のひとっ飛び

をやったキチ坊は、ひゅうっと弓形をえがいて、おうち

のある屋根の下へ帰りました。

 兄弟たちはもうみんなもどっていました。キチ坊が家
               ぶたい
族の間にもぐりこむころ、空の舞台では つばめにかわ
         みだ
ってコウモリたちが乱れ飛びはじめていました。
 

2)
 きりさめ
 霧雨の日も、キチ坊は平気で飛び回っていまし
た。池の水面には、かいつぶりの作るような、小さな丸 い輪がいちめんにできました。雨つぶはまるではかった ようにそこへ落ちるのです。キチ坊は、こまかな雨を切                         さ りさいて池を横切り、色の変わり始めたあじさいの咲く 家のへいをこえて、電線にとまりました。  なかまが数羽、キチキチと鳴いて飛びかっています。 ま下の道路を、自動車がしずかに通りすぎました。橋の       てい たもとのバス停で 女の人がひとり、来そうにもないバ スを待っています。キチ坊が、そのビーズのような雨つ ぶにかざられた赤いかさにみとれていると、無敵のフラ ッシュと夕焼けのスイーがりっぱな大つばめといっしょ にやってきました。  「こんにちは、ぼく、キチ坊です」 「わしはスコールのジョー。きみは何のキチ坊かね?」  するとフラッシュが横から、 「こいつはまだ、ただのキチ坊ですよ」 「ほう、海をこえたことのない一年生か。さっき見たが、 なかなかの飛びっぷりだったぞ」  そしてスコールのジョーは、海をわたる大旅行のこと や 南の国のヤシの木の話をしてくれました。         ゆうかん 「つばさが強く、勇敢なものだけが遠い南の国へ行きつ くことができるのだ」 「ぼく、きっと一番のりします」 キチ坊はいきおいこんで言いました。  昼ごろ雨はあがり、日ざしにぬくめられて地面は湯気 をたてました。キチ坊たちは、神社の森をすぎて川下へ 飛んでいきました。       はいいろ  「あそこ、灰色に光ってるね」 キチ坊は、遠く空とのさかいめを見ながら言いました。 「あれは町にあるデパートのビルだ」 「知ってます、ジョーおじさん」 フラッシュがとくいそうに胸をはりました。 「ぼくはデパートのてっぺんに行ったことがある。そこ には南の国のオウムがいてさ、海にしずむお日さまみた いな、まっかなはねをしていたよ」 「まあ、すてき」 夕焼けのスイーがうっとり目をほそめて、あんまり感心 したようすなので、キチ坊は思わず言ってしまいました。 「ぼくだって行けるさ。あした行って、まっかなはねも らってきてあげるよ」
 

3) 次の日は 真夏のようなお天気でした。キチ坊

は町めざして、いさんで飛びたちました。

 高く高く、もっと! 遠く遠く、もっと!

 白っぽくかすんでいたビルの林は 近づくにつれてだ

んだんギラギラ光って、キチ坊の目をいたくしました。

空気もなんだかすっぱくて、のどがひりひりします。で

も、こんなことくらいでへこたれていては、無敵のフラ

ッシュにまた笑われてしまいます。



 町には にたようなビルがたくさんあって、キチ坊が

ようやくデパートを見つけたのは、午後の影が長くのび

るころでした。まっかなはねのオウムは 青いテント屋

根の下、小鳥屋さんのとまり木の上で ぐらぐら、いね

むりをしていました。

「こんにちは、ぼく、キチ坊です」

キチ坊がたずねてきたわけを話すと、オウムは目を片ほ

うだけあけました。

「ああ、すずめくん、ずいぶん日にやけてまっくろだね

え。いいとも、はねならそのへんに落ちてるだろう」

「ぼく、つばめです。今はただのキチ坊だけど、来年は

きっと一番のりのキチ坊になるんです」

 小さな赤いはねを一本もらったキチ坊がお礼を言うと、

オウムはまた、ぐらぐら、ねむりこみながら言いました。

「空気がしめってきた。早くお帰り」



 キチ坊ははねをくわえて飛びたちました。帰りはすぐ

です。またたく間に町をぬけると、ほら、もう向こうに

神社の森が見えてきました。遠くの空には入道雲が白く
                      ぎんあお
わきあがっています。キチ坊は はるか高みの銀青色の

飛行機をやりすごしたり、太ったのろまなハトたちを追

いぬいたりしながら、波形にすべるように飛んでいまし

た。



 とつぜん、大つぶの雨が降りだしました。めすねこは、

よちよち歩きの子ねこたちを、いちはやく、ぬれないと

ころへ連れていきました。クックー・スカイパイロット

のひきいるハトの部隊は 松林の向こうに消えました。

あたりはにわかに暗くなり、かみなりがとどろきはじめ

ました。

「あまやどり、カア! カア!」

大声のからすも、しげった木立ちににげこんでいます。

でもキチ坊は飛びつづけていました。おうちはもうすぐ

です。



 前へ前へ、まっすぐ!

 まっかなはねは、ぬれて重たくなりました。森も雨に

白くぬりつぶされ、とっくにすがたを消していました。

けれどもキチ坊は とまりません。大きく息をすいこむ

と、雨にむかっていどみかかるように羽ばたきました。

キチ坊のつばさは強く、若さがみなぎって、心はいさみ

たっていました。

 ゴロゴロ、ドカーン! 

と、大砲のようなかみなりがとどろきます。雨はまっし
          こうずい
ろに降り、地面は大洪水でした。クロアリを乗せた草の

きれはしが、どぶから川へ流れこみ、きりきりまいをし

ながらまっしぐらに橋の下へすいこまれいきます。それ

でもキチ坊は飛びました。飛びつづけずにはいられなか
                     いっぱい
ったのです。風がキチ坊をあおって、バケツ一杯ぶんの

水をあびせかけましたが、まだキチ坊は飛びつづけてい

ました。もうどこを飛んでいるのか、何のために飛んで

いるのかわかりません。雨はごうごうと降りつづき、キ

チ坊はただ飛びつづけました。



 ピカッとあたりが光ったとき、前方に高くそびえる影

があらわれました。町のビル? いいえ、あれはおうち

のそばのくすの木です!

 帰ってきたよ!

 キチ坊はその上をこえながら、心の中でさけびました。

 ほら見て、まっかな、はね…



 バリバリ、ドドーン!



 すさまじい音がして、キチ坊のま上で空がはれつしま

した。



 いなづまがナイフのように、くすの木をつきさしたの

です。
 

4) ほんのいっしゅんのできごとでした。考えるひ

まもありません。

 気づいたとき キチ坊はもうくたくたにつかれて、か

らだもいらないような感じでした。何も見えず、何も聞

こえなくなりました。そしてむっとする草いきれと、や

わらかな、なつかしいような土のにおいが、ほのかにキ
                        たき
チ坊をつつみはじめていました。雨は小さなからだを滝

のようにあらいつづけていましたが、キチ坊は何も感じ

ません。ただ心安らぐ土のにおいをかいで、あたたかな

かわいた泥のおうちで兄弟たちといっしょにねむろうと

しているような気がしました。



 黒くこげたくすの木は半分がへし折られて、近くにこ

ろがっていました。きなくさいにおいがうっすらとたち

のぼりましたが、たたきつける雨に、すぐ消えてしまい

ました。

 風が出て、雲のはしがちぎれはじめました。雨も少し

弱まったようです。

 ここは道から少しひっこんだ、草のしげみです。ゆた

かな雨にうたれて 夏の雑草たちがいきおいよくのびて

いました。向こうに見えるのは川のはたのガードレール。

そのそばでは、あわいオレンジ色のおおまつよいぐさの

つぼみが、今夜咲く準備をしています。

 ──地面はもう夏でいっぱいでした。



 そのとき金色のはねを光らせた一羽のつばめが草の中

からまいあがりました。

 南へ! 南の国へ! 

 キチ坊のたましいは、はちみつのようにあまくあつい

太陽の国へ、ひとあし先に旅立っていきました。



                     おわり

          (1990年『教育報道新聞』連載)


   *中学時代、毎朝バスを待ちながらながめた風景をもとに、     文芸クラブの雑誌「けやき」に寄稿した習作がこの話の原     点でした。
by Hanna
 


Travelers' Tales へ / ホームページに戻る