ドリトル先生といっしょに冒険を――
 

 “もし、人間以外の生き物と話ができたら…”

 ドリトル先生の物語は、すべて、このファンタジックな一つの発想がもとに

なっています。

 ソロモン王が、魔法の指輪を使って動物たちと語った──というのは、聖書

の伝説。

 19世紀のイギリスに生きたドリトル先生は、魔法は使いません。先生は、オ

ウムのポリネシアに「鳥のイロハから」習い、帳面に書きとめるところから始

めます。また、虫の言葉を聞きとるためには、当時の最新技術をとりいれた機

械をつくる。どちらも、今の私たちと同じやり方です。

 そのあとが、空想のほんとうの広がりです。12巻もある物語の中で、先生は

じつにさまざまな体験をします。作者ロフティングは、ドリトル先生というオ

ールマイティな主人公(医者で学者で探検家、発明家で興行家で芸術家)をつ

かって、いろいろな物語のジャンルに挑戦したのではないでしょうか。

 たとえば『アフリカゆき』は、「むかし、むかし、そのむかし…」と、おと

ぎ話風の書き出しで始まり、やがて、帆船や海賊が登場して、大英帝国ならで

はの海洋冒険ロマンを感じさせます。アフリカでサルの伝染病治療をする先生

の姿は、シュバイツァー博士かだれかのようではありませんか。

 『航海記』は、貧しい靴屋の息子トミーが先生の助手となり航海にのりだす

成功物語であり、南海の漂流島の探検記であり、ついにインディアンの王さま

になった先生の、偉業を歌った叙事詩(?)が出てくるにおよんで、民族学や

文化人類学のかおりさえしてくるのです。

 渡り鳥を使った大通信網をあみだす『郵便局』や、「協同事業」という独自

の運営方法で先生が率いる『サーカス』、動物広告や動物銀行を世に問う『キ

ャラバン』などでは、奇想天外な発想と冒険の中で、一種の社会改良的な試み

が語られているようにも思われます。

 また、ドリトル先生自身は旅や冒険をしない時も、「ネズミ・クラブ物語」

のように、会のメンバーがそれぞれ体験を語る形式がとりいれられたり、探偵

犬クリングの活躍など、ミステリーあるいは推理小説的楽しみもあります。

 作者の想像力が空間的にもっとも広がったのが、『月からの使い』『月へゆ

く』『月から帰る』の三冊。これらは立派なSFです。時間的にはるかな過去

にさかのぼる『秘密の湖』の後半では、ロフティングは旧約聖書の『創世記』

の世界に、動物たちの立場からいどんでいます。

 これほどスケールの大きい、バラエティにとんだシリーズものを、私はほか

に知りません。小学生のとき、このシリーズを読むことによって、知らず知ら

ずのうちに、文学のいろんなジャンルにはじめてふれていたような気がします。

 そして、全編をつらぬいて感じられるのが、ドリトル先生のあたたかな人柄

です。正義感が強く、しかもひかえめで、ユーモアがあり、何事にも動じない、

真の英国紳士であるドリトル先生。先生とともに旅をし、動物語を解するうち、

読者は、未知の世界と多様な価値観を知らされます。

 たとえば、


   「もちろん、ブタにはブタの笑いかたというものがあるのです。し

   かし、たいていの人はそれを知りません。もっとも、知らないほう

   がいいのかもわかりません。人間のすることが、ときどきブタには

   おかしくてたまらないことがあるのです。」  (『サーカス』)


 動物の世界を知り、今までとちがった視点から世界を見ることによって、人

間、とくに文明社会に暮らす現代人の考え方が、時としてひとりよがりで視野

がせまいということが、明らかにされます。辛辣なオウムのポリネシアの言葉

のとおりです──「人間は、じぶんでたいへんえらいと思ったりして、つくづ

くいやになりますね…(略)もし人間が、空を飛べたら──そこらのスズメく

らいにでも飛べたら、どんな自慢をきかされることでしょう。」(『アフリカ

ゆき』)

 ドリトル先生物語の中には、社会風刺ととれる部分もたくさんあって、大人

が読むとかえって新鮮だったりします。先生の冒険に、しじゅうかかわってく

るのが、「お金」の問題ですが、それというのも、先生が、その気になれば大

金持ちになれるのに、「お金をたくさんお持ちになればなるほど、それだけ早

く、すぐまたすかんぴん」、つまりまったくお金にむとんちゃくな人なのです。

トミーや動物たちまでがお金の心配をするところは、ユーモラスでもあり、ひ

とごととは思えない面もあります。ですが、「金のいらぬアフリカへ、早くい

ってしまいたい!」とさけんで、本当にアフリカへ行ってしまう先生。先生に

は、お金という価値観にしばられない世界があるのです。

 くわしくは知らないのですが、ドリトル先生物語には人種差別的なところが

ある、という批評を、何かで読んだことがあります。たしかに、アフリカでは

黒人が出てきて、「野蛮国」「くろんぼ」などという言葉もみられます。けれ

ども、中身を読めば、ロフティングがけっして差別をしているのではないこと

が、わかると思います。先生をゆえなく牢に入れ、あとでポリネシアにまんま

としてやられる、素朴な黒人の王さまは、こう言います。


   「ひとりの白人が、この国へやってきた。わしはその男に、たいへ

   んしんせつにしてやった。しかるに、その男は土に穴をあけて金を

   掘り、象を殺して象牙をとり、こっそりとじぶんの船で逃げ失せた。

   ──『ありがとう』ともいわないで。」  (『アフリカゆき』)


 大英帝国の探検のロマンだけでなく、この黒人の王さまの視点が、大事なの

です。ロフティングがドリトル先生物語を思いついたきっかけは、戦場で、傷

ついた馬が銃殺されてしまうことに、疑問をいだき、馬と話せたら見殺しにし

ないだろうにと考えたことだ、といいます。ドリトル先生は、ウジ虫と話し、

ウジ虫の身になって考える人──「そういう虫がきたないとか、自分より値打

ちがないとか考えたことはない」人、自分とは立場や価値観のちがう者とでも、

わかりあえる人です。だから、動物たちにしろ、トミーや黒人王子バンポにし

ろ、(文明社会の価値観にこりかたまった人以外は)みんな、先生の友だちで

あり、仲間なのです。

 先生は、王さまにもなり、ロンドンの有名人にもなり、宇宙旅行もします。

けれど、未開の地でも、サーカスでも、月世界でも、先生はつねに医者であり

続け、赤ん坊の病気をみてやり、貧民窟のスズメの骨折をなおし、リューマチ

の月世界人に薬を処方するのです。

 そんなドリトル先生を、物語中でトミーはアッシジの聖フランシスにたとえ、

訳者の井伏鱒二は、「東洋における巷間の聖者」と述べています。先生を愛す

る人に、悪人はいません。ものわかりの悪い人々が一文なしの先生を笑うとき

も、「犬やネコや、町じゅうの子どもたちは──まだ先生がお金持ちだったこ

ろとおなじように──かけ出していって、先生のあとを慕って、ぞろぞろとつ

いて」ゆくのです。私も、いつまでもその一人でありたい、先生と一緒に世界

をおおらかな心で冒険してゆきたい、と、思います。



                   (「児童文芸」1994年3月号掲載)

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