霧の中の異境――イギリスの「空」
 

 イギリス諸島では「一日のうちに四季がある」というほど天気が変わりやす

く、日本と同じ海洋性の気候です。高山は少ないものの起伏にとみ、川や湖、

湿地の多い地勢。このような自然環境が、霧をうみだします。

 霧のロンドン。たとえばディケンズの『クリスマス・カロル』(新潮文庫・

村岡花子訳)は、霧深いクリスマス・イブから始まります。にぎやかな市中な

のに、霧は万物をおおい隠し、「まるで「大自然」という存在がつい近くにい

て、大仕掛に酒をかもしているよう」です。

 霧は都会の近代性や合理性を薄れさせ、神秘的な世界を現出します。つまり

現実主義者の守銭奴スクルージが、亡霊に会い、時空を越えた旅にいざなわれ

る。効果的なことに、最後にスクルージが改心して目ざめた現実世界は、「霧

ももやもない、澄んだ、晴れわたった」朝でした。

 都市やきちんと区切られた田園地帯をはなれ、森や沼地、ヒースの荒野など

に足を踏みいれると、霧はますます深くたちこめて、文明人を畏怖させるよう

です。


   霧はだんだんうすい紗のように、あたりを包みはじめた。…明るい

   空にも霧の輪がかかり、月はかすんでいた。霧。ほかのどんな気象

   の変化よりも、一番おそろしいのが霧だった。それが今襲ってこよ

   うとしているのだ!


 これは、ローズマリ・サトクリフ『第九軍団のワシ』(岩波書店・猪熊葉子

訳)に出てくる北方の荒野の霧です。地理的にスコットランドの大自然の象徴

であると同時に、英国の歴史の中にたちこめる霧でもあります。

 時は二世紀、北部辺境の「氏族たち」を平定しに行ったローマ軍団は、行方

不明になり、帰ってきませんでした。「氏族たち」とは、ケルト系の先住民の

ことです。アニミズム的な神々や儀式とともに生きる彼らの社会は、当時、ブ

リテン島の南半分まで進出したローマの支配下の人々にとって、地続きの隣で

ありながら、まるで異境だったのです。

       ムーア
   「…高い荒野の方から霧がおりてきて、軍団は行進してその霧のな

   かへはいっていきました。まっすぐに。軍団をのみこんだ霧は長く

   あとを引いていました。そのさまはこの軍団がちょうどひとつの世

   界から他の世界へとはいっていくようにみえました。」

                      (『第九軍団のワシ』)

   「…山国は霧で包まれていた。そしてその霧のなかから氏族があら

   われておれたち(=ローマ軍団)を苦しめた」    (同前書)


 主人公のローマ人マーカスは、この「北の霧のなかに消えた」軍団の消息を

求めて旅をし、氏族に奪われた軍団の旗印「ワシ」を取り返しますが、南部の

ローマ領へと逃げ帰る途中、やはり霧の中を進まねばなりません。マーカスを

助け、霧の外へ導いてくれたのは、もと軍団の男グアーンでした。彼は今では

氏族の女性を妻にして暮らしています。


   数歩進んだ時、マーカスとエスカはうしろをふりかえった。…(グ

   アーンの)姿はもはや霧のなかにかすみはじめていた。…それは…

   半分裸の、もじゃもじゃ頭の氏族の男の立ち姿だった。しかし別れ

   のあいさつのために高く手を挙げ、きびきびした態度で大きくそれ

   を動かしているグアーンはどうみてもローマ人だった。…それから

   ただよってくる霧がふたりの間をへだてた。…大丈夫だろう。霧が

   帰る道をかくしてグアーンを護ってくれるだろう。 (同前書)


 この場面で象徴されるように、霧は、文明や新しい社会によって歴史から追

われようとする古い世界を、護るように包みこんでいます。

 ケルト、ローマ、サクソン、ノルマン…次々と民族移動の波がおしよせたイ

ギリスの古代史を考えると、新しい文明に主流をゆずった古い世界は、霧につ

つまれた異境となり、人里はなれた荒野や丘陵のフェアリーランドとして、人

々の記憶の底にとどまるのかもしれません。

 アーサー王時代の、新旧の世界のせめぎあいと移り変わりをえがいた、マリ

オン・ジマー・ブラッドリー『アヴァロンの霧』四部作(岩原明子訳・ハヤカ

ワ文庫)は、児童向きの読み物ではありませんが、少しだけ引用してみます。


   そのころは世界と世界の間の門が霧の中に漂っており、旅人が意図

   した時だけ開いて、世界が通じ合うことになっていた。

            (『アヴァロンの霧』第一部『異教の女王』)

   「アヴァロンの時代は終わった…。…わたしたちはますます遠く霧

   の中に入って行き、ついには伝説と夢にすぎなくなってしまう」

                  (同前書第四部『円卓の騎士』)


 この霧の中の異境アヴァロンで、英国最初の国民的英雄アーサー王が、不老

不死で今なお生き続けているとも言われています。



                   (「児童文芸」1998年12月号掲載)

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