安らぎの港町  Port Kab=Mindar‘the HAVEN’

ポート・カブミンダー・ストーリー

SCENE 3
 部屋の中には外より一足早く夕闇が訪れる。だだっ広

いベッドの上で、うすら寒いのか体を丸めていたバーゼ

ルは、もぞもぞと身動きした。二、三度寝返りをうって

から目を覚ます。

 ポスターの中の母親は暗がりに沈んでいてよく見えな

かった。が、彼はあかりもつけずに靴をはき、背もたれ

をさぐって薄い上着をひっかけると、洗面所へ行った。

顔を洗ってからベッドへ戻ってシーツを引きはがし、そ

れで顔と手をふいて、丸めながらドアの方へ歩く。

 彼の家は二階にあった。エレヴェータが遠いので、も

っぱらドアの前の非常階段を使っている。ステップに貼

ってある蛍光ラバーは半ばはげ落ちていて、あたりは暗

かった。バーゼルは生体認識プレート反応の鍵をロック

し、シーツを持って階下へ向かった。一階には物置じみ

たマネジメント・ルーム。そこにある洗い物用シュート
              ウ ォ ッ チ フ ォ ン
口へシーツを放りこむと、通信機能付腕時計を見た。そ

れから外へ出かけた。



 春のおぼろな夕暮れ時だった。そこここにまだほんの

りとした昼間の光が、名残りを惜しむように漂う。風は

ゆるゆると、くすぐるように吹いたりやんだりしていた。

黒ずんだビルの裏を抜けて、今は浮浪者のたまり場とな

っている立体駐車場まで行くと、そこに四、五人の少年

たちがいた。

 彼らは建物の下の闇と、外のうすあかりとの境目あた

りにかたまっていた。背丈はまちまちで、一番大きい少

年はバーゼルより二つ三つ上ぐらい。小さい子はほんの

五、六歳だ。何人かは、一見煙草に見える細長い菓子を

口にくわえている。

 一番大きな少年は妙におとなびた感じで、本物の煙草

を吸っていた。ちぢれた茶色の髪と丸い大きな目の持ち

主で、仕草はませていたが、顔立ちは幼かった。真っ赤

なシャツの上にグレイの上着を羽織っている。なかなか

いい上着で、それが自慢らしく、手ざわりを確かめるよ

うに片手で生地をなでている。煙草は親指と中指でつま

むようにして吸うのだった。

 「マーヴィンがまだだ」

バーゼルが近づいてゆくと、彼はそう言った。

 バーゼルは少年たちの輪に加わった。小さな子が彼に

煙草まがいの菓子をくれた。バーゼルはふんと鼻を鳴ら

して受け取ると、ポケットからライターを出して火をつ

けた。菓子の先が黒く焦げて甘味料の焼ける匂いが立ち

のぼった。

「臭ぇ…」

菓子を渡した少年は、がっかりするでもなく、気を悪く

するでもなく言った。

 「マーヴィンは来ねぇんじゃないかな」

バーゼルが言った。

「母親がすッごく怒ってるって、今日“オーヴァー・ザ

・クロス”でしょげてた」

 オーヴァー・ザ・クロスというのは彼らの言葉だと学

校をさすのだった。
      マ  ミ  イ
「あいつ、お母ちゃんが恐いんだぜ」

歯の欠けた別の少年が甲高い声で言った。この少年は一

匹の真黒な子猫を片腕に乗せている。もう片手ではさっ
       スウィッチブレイド
きから小さな飛び出しナイフをいじっては、パチンパチ

ンとふり回している。猫は全然動かず、鼻先をナイフが

かすめてもまるで腕の一部になったようだ。

「それぞれの事情があらァな」

年上の赤いシャツの少年が辛気くさい言葉をはいた。

 「じゃ今日はオレが前、いいだろ」

透明なほどの金髪で、どこかガラスの人形を思わせる小

さな少年が、勢いづいて言った。しゃべると人形どころ

かカミソリのようにピリピリしている。色白で目の色も

うすく、触れると静電気でもおこりそうに殺気だってい

た。

「ミスンなよ」

黒猫とスウィッチブレイドの少年が冷笑した。

「るせー、このヤロー」

静電気の少年がくってかかると、急に黒猫がニャアオと

鳴いた。

 「いいから、ミハイル」

年長者らしく赤シャツ少年がたしなめ、公平にスウィッ

チブレイド少年にも、

「コーニー、猫しまってけ」

と言った。その言葉と同時に彼らは歩き出した。スウィ

ッチブレイドのコーニー少年は、すぐそばのふた付きあ

きカン入れに猫を「しまって」置き去りにした。彼らは

もう口をきかず、黄昏の裏通りをはしこく移動していっ
               エ レ ク ト リ カ
た。トラックやキャリーカー、電気自動二輪など、走っ

ているのや止まっているのや、とにかくごちゃごちゃ混

み合い、たがいにピーピーファンファンと警笛でいがみ

合っている。が、そんな騒ぎもけだるい大気にとけて、

いつもよりはソフトに聞こえた。



 少し行くとそこはフォールンでも店の多いウィミング

・クロスだった。同じように陰気なビルとすりへったア

スファルトからなる交差点だが、あたりでは一番にぎわ

っている。3Dシアターの前の路上には、どぎつい蛍光
           コロウジョン
色で「ラッシュアワーに腐食作用」だの、「ふりしきる

雨のカーテンコール」だの、訳の分からない映画のタイ

トルが書きなぐってある。場末のダンステリアにはそろ

そろ人が集まり出していた。観光客の姿もちらほら見か

ける。この辺では港で密輸される貴金属や食品が安く買

えるのだ。ハイオルン内のものも安い。通の目当ては特

級のマンストーン産ワインである。

 少年たちは二手に分かれて人ごみに紛れた。目星はつ

いている──確認のため、バーゼルに菓子をくれた一番

小さい子がすぐ近くまで行って、皆にも見えるよう歩く。
                      つ
歯の欠けた黒猫のコーニー少年が少し後ろから尾け始め、

時折スウィッチブレイドをポケットから出したり入れた

り、わざとくり返しながら次第に足を早める。

 少年たちに狙いをつけられた男は、アルコール・ショ

ップから出てきたばかりの観光客らしい年配の男。だが、

まったくのおのぼりさんではないらしく、コーニー少年

に尾けられていることを知ってメインストリートへぬけ

る近道をしようと横丁へすっと入る。それを、遠まきに

していた他の少年たちがすぐに追う。男は数歩行った所

でカミソリ−静電気少年ミハイルにドンとぶつかられた。

と思うと目の前にコーニーも一番小さな少年も勢ぞろい

して立ちふさがっている。

 「何買ったんだよ、おッさん?」

小さな少年が舌足らずに尋ねる。コーニーがスウィッチ

ブレイドの刃をパチンと出す。酒を買ったんだ。どいて

くれ。どかねェよ。いくらで買った? そんなこと、ど

うでもいい。よくはねぇ、市価より安いと没収に罰金な

んだぜ。

 通行人は多かったが、皆、見えていないようにさっさ

と通り過ぎていく。半分は、多かれ少なかれ似たような

ことをしたり見たりして育った、フォールンの人間だ。

観光客やよそ者は避けて通ったし、警官はすぐ隣の店先

で事故を起こした車にかかりきりだ。

 男は小うるさいガキどもを押しのけようと一歩踏み出

した。コーニーは落ち着き払ってベルトにはさんであっ

たハンドガンを引き抜いた。

 銃ぐらいこっちにもある。男は自分のバッグの中から

取り出そうとした。ヒュウ、とすぐ後ろで口笛が聞こえ

た。気づかないうちにバーゼルがちゃんとハンドガンと

スウィッチブレイドをつきつけて立っている。彼らの銃

はどれもガタのきた払い下げ品ばかりだったが、ちゃん

と弾の出る証拠に男の足もとへ二、三発見舞ってやった。

そのすきにカミソリ少年ミハイルが突進して、自分の頭

より高いところから男の銃を奪う。コーニーは男の上着

をつかんでスウィッチブレイドで手際よく切り裂き、札

入れを手に入れる。ヤミ値の物品はキャッシュでしか買

えないので、結構入っていた。

 最後に、落ち着いて赤シャツの年長の少年が現れると、

いきなり相手を力いっぱい殴り倒す。それが退散の合図

で、彼らはアッという間に四方へ散った。



 五分後、さっきの駐車場のすぐ近くにある半地下のゲ

ームショップに、少年たちは集合した。ゲームマシンの

たてるきしるような騒音が、途絶えることなく店に満ち、

床にはホロ・ヴィジョンの半透明な色つきの影が重なり

合いうごめいている。薬中の中年男や中等課程くらいの

少年たちが、あちこちの機械に三々五々散らばって、ゲ

ームに熱中していた。フロアは途方もなく広く、マシン

群に阻まれて向こうの端は見えない。

 赤シャツの少年は、かっさらってきた酒のボトルの包

みを足もとに置き、てきぱきした様子でコーニーから札

入れを取り上げると、ウォッチフォンの電卓をはじいた。

「今日はマーヴィンぬきだから、増えるぞ」

そして両替機で札を崩し、皆の前でコインの山を分けた。

自分、スウィッチブレイド少年コーニー(彼はもう黒猫

を再び抱えていた)、バーゼル、年少のミハイルとサフ

リの順で、

「5、4、3、2、2」

と言いながら、その通りの比率でコインを分け、はした

の小さなコインは年少の二人に気前よく追加してやる。

 「これはどうする?」

ミハイルが奪ってきた護身用ハンドガンを出した。メタ

リックグリーンの新品だ。

「誰か使うか?」

と赤シャツ少年。誰も申し出ない。

「ダフィーんとこへ持ってく方がいいぜ」

コーニーが言った。一同はうなずいた。赤シャツ少年が

皆の同意を見届けた後、コーニーから戦利品を受け取っ

て自分のベルトにはさみこんだ。

「酒は三本しかねえから、飲んじまおう、ナジャス」

コーニーが説得するような口調で言った。まだ片手にス

ウィッチブレイドを握っている。猫はコーニーの気持ち

を代弁するかのように半透明のポリバッグに入ったボト

ルに首をすりつけながらニャオと鳴いた。

「オーケイ、拾い場に行こう」

赤シャツのナジャスがうなずき、彼らはまた路上に出た。

 「ダフィーんとこが先じゃないの」

カミソリ少年・ミハイルが、生え変わり始めたばかりの

欠けた前歯で訊いた。

「ミハイル、コーニーみてぇだ」

と、サフリがそれを見て笑った。



 暮れ出すと早い黄昏で、建物の輪郭が丸みを帯び、や

わらかな灰色に見えた。気の早い電飾もちらほら光って

いる。少年たちは次第に薄墨色に沈んでいく街路にとけ

こんで、そよ風のように進んだ。すると、いくらも行か

ぬうちに、やはり灰色の風景からふと現れた、いま一人

の少年が先頭のナジャスを呼びとめた。

 「ルーカス」

それは赤シャツのナジャスと同じくらいの背で、もっと

粋な身なりの少年だった。薄いダウンのしゃれた上着に

ブラストしたGパン、同色のジーンズ・キャップをあみ

だにかぶっている。小さな男の子たちは羨望のまなざし

でこの少年を見つめた。赤シャツのナジャスはかすかな

嫉妬の目になった。が、そこは例のさめた口調のまま、

「こっちに帰ってたのか?」

と尋ねた。

「うん、今来たとこさ。どこ行くの?」

ナジャスにおとらぬ無表情な顔で相手は訊いた。

「拾い場さ」

黒猫を肩にのせたコーニーが答えた。

「新しいコトバだな。どこのこと?」

「新地の白いビル、スクラップヤードさ」

初めてバーゼルが口を開いてそう説明した。

「仲間に入れろよ。飲み食いすンなら払うからさ」

「いいよ。行こう」

 この身ぎれいな少年はルーカスといって──バーゼル

の異父兄だった。父親はアヴェニュー・ヒッターズのマ

ルヴァ・コオである。
by Hanna
 


 

SCENE 4
 バーゼルが初めてルーカス・コオに会ったのは、母親

の葬式の日だった。葬式はバーゼルの伯母にあたる女の

手で一切合切行われた。父親は彼の手を引いて貸衣装屋

へ行き、自分の分と彼の分の喪服をレンタルした。それ

を店で着て、そのままキャリーカーに乗って、伯母の家

へ出かけた。まるで他人の葬式に行くように。

 伯母の家はポート・カブ=ミンダーの郊外にあった。

どこだったかバーゼルは二度と思い出せなかった。そこ
             お
では見知らぬ人々と奇妙な圧し殺したざわめきが彼をと

りまいていた。早く終わればいいのにと彼は思った。彼

は行きつけの店にある最新のホロヴィジョン・ゲームの

ことを考えて暇をつぶした。

 アヴェニュー・ヒッターズのマルヴァ・コオの姿が見

えた。と思うと彼と父親が激しい口論をしていた。この

間見たのとそっくりの光景。ただ今回止めに入ったのは

伯母にあたる女だった。その女は全然母親に似ていなか

った。マルヴァ・コオの背後には黙って睨み顔をしてい

る男が何人かいた。そのうち一人は、たまに訪ねて来た

ことのある、何か父親の「仕事」の関係者だ。だが、そ

の男を含め、マルヴァ・コオの後ろにひとかたまりにな

っている連中は、他の人々の中で異質な匂いがした。

 父親は、今度は伯母とさかんに議論した。話題になっ

ていたのは母親なのか、それともあのガラス張りの部屋

に寝ていた赤ん坊なのか、バーゼルには分からなかった。

コオも話に加わった。他に見知らぬ人々も加わった。彼

らのやりとりには「フィービ」という名がくり返し出て

くるのだが、それは母親の名であるのと同時に赤ん坊の

ことを指しているようでもあった。

 肝心の赤ん坊がどこにいたのか、バーゼルには分から

なかった。



 長い時間がたって、彼は皆と一緒に、伯母の家から別

の建物へ行った。そこはフリージング・カーゴとレンタ

ルロッカーの合いの子のような、奇妙にのっぺりしたビ

ルだった。キャリーカーを降りると身を切るように冷た

い風が、首筋と頬とに吹きつけた。空から羽毛のような、

灰色がかった雪が降っていた。

 その建物の静けさは、あの病室にそっくりだった。わ

ざと力なく歩く人々の行列が、ロッカールームの廊下の

ような所をしずしず通っていった。バーゼルは列の後ろ

の方だったので、何が行われているのか少しも分からな

かった。暖房がきいていたが、床やロッカー型の物の一

つ一つから底しれぬ冷気がじわじわとバーゼルに迫って

きた。

 行列が止まった。バーゼルはホロヴィジョン・ゲーム

のことを考えようとしたが、できなかった。呪文のよう

な祈りの文句をつぶやく単調な声と圧し殺した人の気配、

冷気などがごっちゃになって、バーゼルは本気で自分の

健康状態を疑いだした。前に、隣に住むヤク中の女が階

段から転落し、踊り場に倒れたまま笑っていたのを見た

ことがあった。彼は自分もあの女のようにニヤニヤ呆け

てしまうだろうかと心配した。

 だが鎮魂歌が止められると、行列はまた建物の出口へ

と戻り出した。バーゼルはほっとした。誰もがほっとし

た表情だった。

 玄関で父親とコオは再び口論を始めた。周りの人々に

止められてすぐおさまったが、二人はぷいと離れ、別々

のキャリーカーに乗って伯母の家に戻った。車に乗りこ

む時も降りる時も、コオは恐ろしい顔をして口の中でぶ

つぶつつぶやいているようだった。バーゼルはコオと、

そのそばにくっついている数人の男たちが急に怖くなっ

た。



 一行が再び伯母の家に通された時、コオと連れの連中

はしばらく見えなかった。少し安心したバーゼルが、父

親と並んで何か出されたものを食べていると、肩をつつ

く者があった。

 父親は見知らぬ人々と話し合っていて、彼には注意を

払っていなかった。バーゼルが振り向くと、部屋の隅に

ある観葉植物のそばに、見たことのない少年が立ってい

た。クリムゾンのセーターにグレイの細身のズボンとい

う姿で、手招きしている。

 近くへ行くと、その子はバーゼルより少し背が高かっ

た。髪の毛は枯葉色で女の子のようにふわふわだった。

彼は物知り顔にバーゼルに微笑みかけると、

「お前、カーディングの子だろ。大事なこと教えてやる。

耳貸せ」

威張るというより、大人びた口調で言った。

「誰だよお前」

バーゼルは窮屈な借り着のポケットに無理矢理手を突っ

こんで言った。

 すると相手は片手で口を覆って囁いた。

「お前の兄貴。俺の親父はマルヴァ・コオ。俺はアヴェ

ニュー・ヒッターズのルーカス。ちゃんとメンバーなん

だぜ」

バーゼルは目を丸くして相手を見たが、黙っていた。ル

ーカス・コオ少年は続けた。

「今日は独りで帰るなって、お前の親父に言いな。マル

ヴァ・コオと手下がカーディングの命を狙ってンだよ」

バーゼルはうさん臭げに相手を見たまま、まだ口を閉じ

ていた。

「いいか、これはミッコクなんだ。でも俺の弟だからな、

教えてやるんだ。それに今度のことは、カーディングは

悪くないのさ。だから教えてやる。それがジンギてもん

なんだぜ。絶対親父と二人だけでは帰るなよ、分かった

か?」

 バーゼルがうなずくと、ルーカス・コオは真っ白な歯

を見せてにっと笑った。

「じゃもう行って。お前名前は?」

「バーゼル・パイム」

「分かった。じゃな」

彼はバーゼルを押して向こうへ行けという合図をした。

それからくるっと背を向けて静かにソファの後ろを通り

ぬけ、部屋を出て行くのが見えた。

 バーゼルも静かに父親の隣に戻った。だが急に彼には

空気が熱く感じられた。



 それからバーゼルはもう何も食べずに、かすかに足を

もじもじ動かしながら、黙って座っていた。一度伯母が

彼に何か声をかけたが、聞こえないふりをして顔を上げ

なかった。それどころじゃない、と思ったのだ。かとい

ってさしあたりやることもなく、彼はじりじりした。

 多分ほんの数分、長くても十分ほど後だったか、よう

やっと父親は席を立ってそそくさと外套を羽織った。例

のてかてかするインヴァネスである。伯母はカーディン

グからは見えない所でそのコートを横目で睨み、顔をし

かめた。バーゼルはそんな伯母を見ながら、辛抱強く父

親に話をする機会を待った。

 父親が彼に上着を着せようとかがんだ時、彼は小さな

声で言った。

「コオが命を狙ってるって」

「何?」

カーディングはバーゼルの襟をきちんと折ろうとしてい

たが、その手を止めて訊き返した。バーゼルは怖くなっ

た。今にもコオと配下の男たちが背後にせまってきそう

な気がした。彼は父親の膝へにじり寄ってまた囁いた。

「コオたちがカーディングの命を狙ってるって。独りで

帰るなって」

 父親はまた急に忙しく襟を折る手を動かした。それか

らぎこちない動作で立ち上がり、バーゼルの手をぎゅっ

とつかんで歩きだした。伯母が玄関に先回りしていて、

早く送り出してしまえとばかり挨拶の言葉を並べた。そ

しておしまいに、

「あの子は確かに預かります。預かる以上、名前はフィ

ービですからね。フォディーだか何だか…呼び名はあな

たのご勝手に。でもプレート登録名はフィービ、これは

母の意見ですから」

 伯母のその早口に、カーディングは諦めたような、蔑

んだような顔で

「お好きなように」

と返すと、すたすたバーゼルの手を引いて歩き出し、キャ

リーカーまで一度も振り返らなかった。バーゼルも振り

向かず、伯母とは二度と会わなかった。

 カーディングは急いでプレート反応ロックを解除し、

先にバーゼルを車へ押しこんだ。彼はじたばたしながら

座席にもぐりこむと、いよいよつのってきた恐怖に我慢

できなくなって、

「でもコオが…」

と叫ぶように言いかけた。

 父親は怖い顔でバーゼルを見た。バーゼルは殴られる

かと身を縮めた。

「誰が言ったんだそんなこと」

父親の声は意外に静かだったが、低く、無気味に聞こえ

た。

「ルーカスってヤツ。コオの…息子だって」

 すると父親は三白眼になってバーゼルを睨みつけたま

ま、ウウッとうなった。それから急にハンドルの方へ向

き直った。彼はアクセルを踏みながら片手をシートのク

ッションの下につっこんで、何かを取り出した。

 バーゼルはじっとその様子を見つめた。それは銀色の

レーザーガンだった。近所のヒッターズの三下が持って

いるのをバーゼルは見かけたことがあった。これは、も

っと上等でつやつや光っていた。父親がそんな物を持っ

ていようとは、その時まで知らなかった。

 車は走り出していた。父親は銃の安全装置を外すと膝

の上に置いた。そしてバーゼルに、リアシートから後ろ

を見ろ、と言いつけた。

「変な車とか、コオとか、ヤツの手下とか、とにかく見

えたら知らせろ。頭はなるべく引っこめとくんだ。大丈

夫だからな」

父親の声が落ち着いているので、かえってバーゼルには

別人のように聞こえた。父親といえばディスプレイボー

ドに向かって写真をいじったり、ラッカーボトルを並べ

たりするだけの人間だと思っていた。だが家にいない時

――父親はよく家を空けた――何をしているのかを、バ

ーゼルは少しも知らなかった。

 彼は言われた通りシートにしがみついて肩をすくませ、

車の後方に目をこらした。

 ずいぶんたって首が痛くなったが、何も起こらなかっ

た。キャリーカーはどういうわけか市街地をぐるぐる走

っていた。やがてやっとフォールンのはずれにさしかか

った。

 すると父親が急に車を止めた。そしてバーゼルの襟を

つかんで自分の方を向かせ、顔を近づけて一言、一言、

区切るように言った。

「ここからなら、帰れるな。いいか、危ないと思ったら、

逃げろ。夜になっても、帰ってこなかったら、いいか、

フォディーの面倒はお前が、見るんだぞ。フォディーは、
    とお
お前が十になるまで、伯母さんとこにいる。十になった

ら、いいか、妹の面倒見るんだぞ。分からないことがあ

れば、アンディんとこへ、連絡するんだ。電話、できる

な? ウォッチフォンのパスワードは、これだ。ちゃん

と帰れるな? それから、いいか、」

父親は急に手を振り上げた。バーゼルは今度こそ殴られ

るかと身をちぢめた。

 「いいか、逃げるんだ」

また父親が言った。再びバーゼルの襟をつかんでいる。
                     ・・・・
「こういう時は、ちぢこまってるんじゃない。かわして、

逃げろ。いいか、危ない時は自分で逃げないと、誰も助

けてくれないぞ。夜になったら、アンディ・キートんと

こに電話しろ。いい子でな。さあ、降りて帰れ」

 父親はじっとバーゼルの目を覗きこみながらそう言っ

て、彼の肩をゆさぶった。それからパスワードのメモを

バーゼルのシャツのポケットに押しこみ、車のドアを開

けた。

 「父さん」

バーゼルは冷たい外気にぶるっとふるえながら言った。

「早く行け、走って帰れ」

父親はそう言うとバーゼルを外へ押し出した。シャーッ

とドアが閉まり、キャリーカーは走り去った。湿り気を

帯びた冷たい風がタイヤから吹き起こって、汚れたアス

ファルトに散りばめられたゴミくずを舞いあげた。
  (つづく)
by Hanna
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