2.ミクロコスモスとしての“一つの指輪” (つづき)

C) 救済


 自己保存欲が肥大しすぎるのを避けるためには、我々はどうすればよいのか。

『ホビットの冒険』で真の個性化をすでに体験済みのビルボは、「自分の意志

で」[1巻87]指輪を手放し、フロドに譲ることができた。フロドは指輪を受け

取って個性化の道を歩まねばならない。

 最初は「旅の仲間」(The Fellowship of the Ring)がフロドを助ける。フ

ロドは何度も、友人を伴って行くようにと助言を受けている。例えば、「一人

で行くな。信頼のおける、そして自ら進んで行く気のある友人を連れて行け」

[1巻156]とエルフのギルドールは言う。また、ガンダルフも「大いなる叡知

よりもむしろかれらの友情に期待したほうがよかりそうにわしは思うのじゃが

ね」[2巻121]と言う。さらにボロミアの弟ファラミアの予期せぬ援助を見い

だした時、フロドはそのことが「凶を大いなる吉に転じましょう」[4巻190]

と言っている。指輪の結合の力は、エンデのイスカールナリ(18)のように「混ざ
                     セルフ
り合う」ことによるのではなく、「おのおのの自己が、どのようにして…独自

の独立したアイデンティティを保ちつつ、全体の部分部分であるか」によって

いる。

 しかし、自意識の結合は壊れやすい。メンバーはそれぞれ他人と意見を異に
                     リング
しており、「“仲間”は…【より大きい全体の輪への】服従のきずなが切れ

たとき、崩壊する。」(19) きずなを切ったのはボロミアで、彼は指輪への欲望

に負けてしまったのだ。このように、「冥王の力は仲たがいという形で示され

る。」(20)

 このことは、自由な個人主義が何らかの内的危険性をはらんでいるという
                        セルフ
警鐘ともとれる。西洋文化において、人々は独立した自己を確立するのに多大

なエネルギーを費やしてきた(21)が、その一方で人々は「サルーマンの心でもっ
                          ダークエイジ
て、自分自身の理性を神とみなし」、その結果、「我々は暗黒時代に放り出さ

れた。そこから脱しようと、我々はいまだにもがいているのである。」 そこ

で『指輪物語』は、専制君主的なサウロンに対抗して、民主的な「仲間の再結

束」を決議するのだ。が、我々は注意せねばならない。というのも、トールキ

ンが民主主義について言ったように、


    へりくだり
   『謙譲』と平等ということは、機械的に実現しようとしたり、形式

   的に具体化しようとすると退廃してしまう精神の原理である…。機

   構化・形式化の結果だれもが手に入れるものは…尊大と誇りであり、

   やがてどこかのオーク鬼が権力の指輪を手に入れると、われわれは

   奴隷の身分に落とされ、奴隷の身分にとどまることになる。(22)



 「一行の離散(The Breaking of Fellowship)」[2巻343]の後は、サムだけ

がフロドと共に行くことになる。私を含め多くの読者が、フロドが予言した

[4巻226]ように、サムを最も親しみが持てる登場人物と感じている。パトリ

ック・グラントは、『指輪物語』の中で最も感動的で真に英雄的な登場人物は

サムであると主張する(23)。 サムは、旅の初めに自分で言ったように、最後ま

でフロドに熱心に仕える。「たとえあの方【フロド】が月へ上られようと、お

らはあの方について行くだ。そしてだれぞが…あの方の邪魔立てをしようとす

るなら、そのときはこのサム・ギャムジーがひかえてることを…思い知らせる

だ」[1巻161]。確かに、「フロドだって、サムがいなきゃ、遠くまで行かな

かった」[4巻226]のである。『はてしない物語』では、バスチアンを救い彼

の現実世界への帰還を可能にしたのは、アトレーユの友としての真の愛である。

 しかし、サムの献身的で我が身をかえりみない愛も、最後の瞬間にはフロド

を救うことはできない。“滅びの亀裂”の側に立った時、フロドは指輪を手放

すことができないのだ。「『わたしは来た』とかれはいいました。『だが、わ

たしがここに来てするはずだったことを、もうしないことにした。…指輪はわ

たしのものだ!』そしてそれを指にはめたと見るや、不意にその姿はサムの前

から消え失せました」[6巻104]。このようにフロドは敗北するのである‡†。

なぜなら指輪、すなわちその者の自意識こそは、その者の「知っているただ一
  いのち
つの生命」だからである。もしそれを失ってしまえば、「汝は塵(dust)なれ

ば、塵(dust)に還るべし」(24)なのである──指輪欲しさにフロドに襲いかか

ろうとしてサムに邪魔された時のゴクリが、悲痛に叫ぶ次の言葉の通りである。



   「わしら【ゴクリは自らをそのように言う】を生かしてくれ、そう

   よ、あとほんのしこし生かしておくれ。負けた、負けた(Lost,

   lost)! わしら負けたのよ(We are lost)。いとしいしと【指

   輪】行っちゃえば、わしら死ぬよ、そうよ、死んで土(dust)にな

   るよ。」かれはその長い肉の落ちた指で、道の火山灰をかき寄せま

   した。「つ、つ、土(Dusst)!」かれは音を押し出すようにいいま

   した。                      [6巻101]



 最後にフロドを救うのは、この惨めなゴクリへの慈愛の心である。ゴクリは

三度、その命を容赦されている。一度目は、ガンダルフがフロドに話したよう

に、『ホビットの冒険』の中でビルボに容赦されている。



   「情ないと? 【もう少しでゴクリを殺そうとした】ビルボの手を

   とどめたのは、その情なのじゃ。…情、慈悲じゃ。…さればかれは

   十分に報われたぞ。悪の害を受けること少なく、結局そこから逃れ

   えたのは、かれが指輪の所有者となった時にそういう気持ちがあっ

   たからじゃ。情の念が、な。」           [1巻108]



二度目は、このガンダルフの言葉を思い出したフロドによって命を容赦される。

そして三度目はサムによって。前述のように泣き叫ぶゴクリを、サムは殺すこ

とができなかった。一方、この時フロドはすでに「もはや憐れみに動かされる

ことのない」[6巻100]状態になっている。結局、ゴクリは再びフロドを襲い、

フロドの指を指輪ごと食いちぎり、よろめいて、指輪と共に“滅びの亀裂”へ

と落ちてゆく。そうしてフロドは救われるのである。「あれ【ゴクリ】がいな

ければ、サムよ、わたしは指輪を滅ぼしえなかったろう。…だから、あいつの

ことは許してやろうじゃないか!」とフロドは言う[6巻108〜9]。本当に、

「慈悲の徳とは…/…二重に祝福されているということだ。/慈悲を与える者

と、受ける者の両方を祝福する/それこそ偉大なものの中でも最も偉大なもの

である。」(25)

 このようにして、ニーベルングの指輪と同様、“一つの指輪”はそれがつく
                     リング
られた場所に戻される。そして円環する物語の輪は完結するのである。(26)

  (18)…イスカールナリたちは「個人としての感情はもっていない。」 エンデ、P.517
  (19)…グラントP.102
  (20)…アイザックス編P.109、D.J.ジェフリー“回復:『指輪物語』の名”
  (21)…河合隼雄『昔話…』P.223
  (22)…カーペンターP.154
  (23)…グラントP.99、101〜2
  (24)…聖書『創世記』3:19
  (25)…タッカーの引用(P.15) シェイクスピア“ヴェニスの商人”4幕1場184〜8行
  (26)…参考 リン・カーター『トールキンの世界』P.183〜191

†〈服従という美徳〉 …服従という美徳(virtues of obedience 

[カーペンター P.229])は、生存競争の掟に通じる。『動物記』のE.T.

シートンは、自然界の掟に柔順で、親の言いつけを守る者こそ生き抜くことが

できると述べている。また、キリスト教の「神への服従」にも通じる。「『失

楽園』では、武勲による栄光は、服従に基づくキリスト教的ヒロイズムにほん

の少し加えられている程度である。…真のヒロイズムは人々の喝采ではなく、

神の愛に依存しているのだ。アダムはこれを見いださねばならなかった」[グ

ラントP.102] 『指輪物語』においても、服従の絆を最後まで維持したとい

う点では、サムこそ真の英雄である。そして指輪は、個々の自意識を結びつけ

る絆の象徴である。

‡〈自由意志と神々〉 …「服従」は強制的なものであってはならない。

あくまで、覚醒した自意識の自由意志 free will に基づく絆こそ大切だが、

ともすると自由意志と服従とは相反する。それを乗り越えることが英雄の最大

の試練ともいえる。『指輪物語』の登場人物は要所要所で必ず、自らの進む道

を自由に選んでゆく。「かれ【ビルボ】が自分の意志でそれ【指輪】を放棄し

たからじゃ。そこが肝心要じゃぞ」[ガンダルフの言葉、1巻87] また、「今、

バスチアンは、アウリンを自らすすんではずしました。」[エンデ『はてしな

い物語』P.570]

 ★自由意志を尊重した上で、服従と愛に応え、主人公を導くのが善なる神で

ある。

  「そなたたちを自由意志でこの地に来させた如く…去ろうというのなら自

  由意志で行かせようと思う」    [『シルマリルリオン』上P.133]

  「…幸福な生活を今後も続けるかどうかは、お前自身に、つまり神に対す

  るお前の服従如何にかかっている。…神は…お前の意志を…元来自由なも

  のとして定められた。」

         [アダムへのラファエルの言葉、『失楽園』5−521〜9行]

従って善神は人界には介入しないのが普通で、『指輪物語』でもヴァラールや

イルーヴァタールは姿を見せない。これに対して悪神は隷従を強い、しばしば

人界に介入する専制者として描かれる。タニス・リーの“平たい地球”シリー

ズでは、神々が人界へ介入し過ぎると、もはや善神とは思われない。

‡†〈敗北の戦い〉 たいていの場合、人は自分の意志だけでは自我(指

輪)を放棄できない。自我=生命を失えば人としての存在はそれきりだからで

ある。エルフの貴婦人ガラドリエルは人生を振り返って言う:「…われらは時

代の移り変わる中を長い敗北の戦いを戦ってきたのです」[2巻270] しかし、

トールキン的世界において、敗北することは冥王にならないことであり、救い

の道なのだ。それを悟った時、人は“悟りを開く”=解脱する。ガラドリエル

は自我の放棄によって自己を保とうとする。「わらわは小さくなることにしま

しょう。そして【中つ国から】西へ去って、いつまでもガラドリエルのままで

いましょう。」[2巻289]また、ゴクリの叫び[6巻101]は、誰しもの奥底に

潜む生への執着である。いかに惨めで浅ましい姿であっても、真実の姿である

ゆえにサムはゴクリを殺せない。“Lost,lost!  We are lost!”(なくした、

なくした。我々は【生命を】失った)というくだりは、我々の魂に共鳴してく

る。これがゴクリにとっての「長い敗北の戦い」なのだと考えるとガラドリエ

ルの無情を嘆く姿とさえだぶって、この場面は全編を通じて最も印象に残った。

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