2.ミクロコスモスとしての“一つの指輪” (つづき)

D)帰還と退場


 さてフロドは友人たちと一緒に故郷ホビット庄に帰ってくる。振り返ってみ

ると、初め、自意識が目覚めた時、フロドは外界の物事を知りたくなった。

「彼は地図をいくつも広げてみてはこの地図の外にはいったい何があるのだろ

うと思うのでした。」[1巻76] また、恐怖よりも強く、「ビルボのあとに続」

こうという「切なる望みが心の中にむらむらと起こってきました」[1巻115]。

この覚醒の後、彼は、個性化の過程がもたらす危険から故郷を救うため、故郷
           ホーム
を出たのだった。私は、故郷とはその者の無意識が依存する場所であると思う。

オデュッセウスやエンデのバスチアンのように、あるいは「行きて帰りし」

[『ホビットの冒険』のサブ・タイトル]探索の旅をしたビルボのように、主

人公はみな、成長し、意識と同様無意識をも含む全き人格となって、故郷へ帰

って来なければならない。故郷では、次の世代が次の個性化の準備をととの

えている。

 故郷に戻ったフロドと友人たちは、堕落した魔法使いサルーマンが荒廃させ

たホビット庄を回復し、次の世代に手渡すために自分たちの体験を書物に書く。

そしてサムは結婚し、庄長に選ばれる。他の二人の友人メリーとピピンはそれ

ぞれ家長となる。しかしフロド自身は、個性化の探索の旅であまりにも深く傷
                                
ついて回復できない(27)。故郷への帰途でメリーが「まるでゆっくりと醒めてい

く夢みたいだな」というのに対し、フロドは「わたしにとってはそうじゃない

ね。…わたしはもう一度眠りに落ちていくような感じだよ」[6巻207]と言っ

ている。フロドは、ゴクリが「誕生日の贈り物」[1巻25ほか]と呼んだ指輪、

すなわち彼が生まれた時もらった彼の自意識を、失ってしまったのである。フ

ロドは無意識の夢へと還ってゆく。しかし、常に同じ夢に戻っていくことがで

きるとは限らない。それはサムが次のように言っている通りである。「おらた

ちの聞くのは、ただそのまま道を続けた者たちのことですだ──そのまま道を

続けてってそれから、いいですか、全部が全部めでたしめでたしで終わったわ

けじゃねえのです。…家へ戻って来て、そして何も変わりがないってことを見

つけるってことですからね」[4巻224]。自意識を失った者には、「本当の帰

還はない」[フロドの言葉、6巻190]のである。

 それゆえフロドは世界の舞台から立ち去っていかねばならない。この世の偉

大な物語は「お話としては決しておしまいにならない」[4巻225]が、トールキ

ンは、「その中の人物たちは登場してき、やがて自分の役割がすむと行ってし

まうんだよ」[同前]というシェイクスピア的な考え方を示している。そして

『指輪物語』とは、ある者がどのようにして退場するか、すなわちどのように
  いのち
して生命の指輪を手放すかを我々に示しているのである。「トールキンの与え

る探索の旅は何かを失うことである。…それを手放すことは辛く嫌なことだ

が、しがみつこうとしてもできないもの、すなわち中つ国でのその者の生命で

ある」(28) 。

 前・指輪所持者のビルボも、フロドと共に去る。というのも、ビルボはすで

に「一生を終えるまでずっと幸せに暮らし」[1巻56ほか]たからだ。そしてエ

ルフの指輪を持つ三人、エルロンド、ガラドリエル、ガンダルフも去ってゆく。

なぜなら彼らの力は、“一つの指輪”が滅ぼされると共に消えたからだ。彼ら

は、自我、すなわち不死の生命を手放すことによって自己を保つわけである。

そうして彼らは故郷の西方の楽園へと帰ってゆく。その故郷こそは、宝石シル

マリルへの愛着という形で自意識が目覚めた時、ガラドリエルが多くの身内の

者たちと共に捨ててきた場所である[『シルマリルリオン』上120〜144]。

  (27)…参考:本多英明『トールキンとC.S.ルイス』P.57、61、67
  (28)…ロジャーズ P.95。この考え方はトールキンの“星をのんだかじや”にも表れている。

†〈帰還について〉

 a)主人公は何を得て(または失って)故郷へ帰るか:健全な自己実現の象徴

として宝物を持ち帰る例に、『ホビットの冒険』のビルボ(竜の宝・指輪)、

『指輪物語』のサム(ガラドリエルの小箱)、メリーやピピン(立派な装束・

角笛)などがある。これに対し、フロドは身体の一部(指)を失って帰り、

『ホビットの冒険』のトーリンは故郷に帰るものの、生命を失う。

 b)帰った時、故郷が危機にさらされている場合がある:危機の程度は、主人

公が旅=自己実現でどの程度傷ついたかに比例している。ビルボの場合、我が

家が売り立てに出されていた。フロドの場合はホビット庄全体が危機的状況に

あり、彼の「誕生日の木」が切り倒されていた。生命にかかわるこの象徴(誕

生日の木)が切られたことは、バギンズ家の未来を暗示する(代わりに植えら

れたマローン樹はサムの木で、フロドの木ではない)。また、ギリシアの叙事

詩の世界では、トロヤ戦争から帰った時、オデュッセウスは妻や財産を奪われ

そうになっており、アガメムノンは帰国したとたんに王位も命も失う。『はて

しない物語』では、バスチアンが帰った時、彼の父はやつれはてている。

 c)帰還から退場までの期間の長さも、自己実現での痛手と対応:ビルボやサ

ムは、故郷でその後、長い間幸せに暮らすが、フロドは間もなく西へ去る。

‡〈“星をのんだかじや”・『ホビットの冒険』の旅と
  帰還・退場〉

“星をのんだかじや”について:かじやにとって「星」が指輪にも当たる大事

な生命だったことは、星を手放す瞬間に彼の感じた「さしつらぬかれたような

痛み」[トールキン小品集P.150]からも分かる。また自力では星を手放せな

い点も、『指輪物語』と共通している。「わたしの代わりに星を箱の中に入れ

てください。」[同前書]

『ホビットの冒険』について:この物語にも、苦しい自己実現の末に去って行

く(死ぬ)者がいる。ドワーフの大トーリン・オーケンシールドである。そし

てここでのビルボは「忍びの者」としていくらかゴクリ的役割を果たしている。


“星をのんだかじや”

 『ホビットの冒険』

  『指輪物語』

料理番アルフの助力
で、かじやは祖父から
銀の星を譲られる。
星は額にはりつく。
    ↓
  妖精の国の旅
    ↓
再びアルフの助けで、
かじやは星を手放す。




    ↓
かじやは疲れて帰宅す
る。


 

ガンダルフの助力で、
トーリンは父から銀
のかぎを譲られる。
かぎを鎖につけ首に。
    ↓
  探索の旅
    ↓
先祖の宝アーケン石
(「トーリンの命」)
を、ビルボが谷間の王
に与える。トーリンは
(見つける前に)石を
失う。
    ↓
トーリンは戦でたお
れ、故郷の山に葬られ
る。アーケン石がその
胸に。彼の魂は「天の
宮居へ」去る。

ガンダルフの助力で、
フロドはビルボから
指輪を譲られる。
指輪を鎖につけ首に。
    ↓
  探索の旅
    ↓
ゴクリがフロドから指
輪を奪い、火の山の深
みに落ちる。フロドは
(所有を宣言したとた
んに)指輪を失う。

    ↓
フロドは指を失い、帰
郷。アルウェンにもら
った白い宝石を胸に、
彼は西へ船出して去
る。

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